母−オモニ

母−オモニ
姜尚中

読後感 その一

この本の中で語られる母への旅は、他ならぬ姜尚中氏自身への旅だ。氏の以前の著書「在日」もこの本も、私は涙無しに読むことはできない。涙の所以はそこにつづられている辛く苦しい差別や貧困状態ではない。氏の自己同一性についての底知れない悩みと不安感だ。日本名と朝鮮名の2つを持つ人の、自分は一体何者なのだという、自分を一人の自分として同定できない不安。常に自分は何者かを問い続けなければならない存在の有り様。その深い、底知れない不安に私は動かされる。

・・・「永野鉄男か・・・。でも姜尚中じゃないか。どちらも本当の自分なんだぞ。ならばどうしてそんなに姜尚中から逃げてきたんだ。逃げなくてもいい、ありのままでいいんだ。ならば永野鉄男でいいじゃないか。いや、違う。それなら今までと同じだ。変わろう、変わるんだ」・・・本文より引用
氏は思春期にその不安の頂点を迎え、姜尚中という朝鮮名を名乗ることでひとまず決着を付けようとするが、この本を読んで、その後も自己同一性の問題が影を落とし続ける氏の人生を感じた。母の生き様を語り、母の故郷を訪ねることで、何とか自分のルーツを明確にしようとする姿に私は強く動かされた。これは氏が背負った運命であり、生涯を通じてこれと向き合わなければならないのだ。

これほど深刻ではないにせよ、私たちは常に自分とは何かを問い続けなければならない。自分自身と向き合い続けなければならない。そういう辛さを、この著書が端的に表しているような気がして、涙が出る。


読後感 その二

・・・とりわけ、息子たちにとって、母は「女」ではなく、あくまでも母でなければならない。息子から「男」になり、「女」と交わり、父親になってからも、息子たちは、母が「女」であったことを認めようとはしない。・・・本文より引用

本のタイトルのとおり、姜尚中の母親の思い出を、その人生と共に綴ったものだ。その語り口は物腰の柔らかい姜尚中氏の人となりがよく表れているようで、読んでいる間にも優しい気持ちになってくる。

人はいつの時代に生まれるか、どの国の人として生まれるか、どんな社会の階層に生まれるか、選ぶことは出来ないが、生まれ落ちたその環境で生きてゆくしかない。姜尚中の母親は朝鮮(今は韓国)人として生まれ、二十歳の頃夫と共に熊本に来た。その生涯の間に戦争、祖国分断、人種差別、それが引き起こす生活苦という不公正で残酷な運命の中を、ひたすら懸命に、自尊心を失うことなく生きた。

戦争や人種差別は個人の責任を問うことが出来ない要因であり、それがもたらす環境はいわば運命のようなものだ。今の世の中では想像することすら困難なほどの生活苦の中で、オモニは時に怒り狂い、時に大いに笑い、周りの人と助け合いながら、艱難辛苦を乗り越えてゆく。そのすさまじいまでのエネルギーが、柔らかな文章で語られる。

オモニは非常に喜怒哀楽の激しい人だったらしい。悲しみを表すときには転げ回るようにして表現した。肉親が亡くなると、太鼓をたたいて奇妙な踊りを踊り狂い、隣人たちからは頭がおかしいと思われていたという。

ここに描かれるオモニは姜尚中氏のオモニであり、例えば隣人らに映った春子(母の日本名)ではない。
人生をふり返ってそれがどのようなものであったかを言い表すとき、実際にあった事実は関係がない。それをどう捉えたか、それがその人の人生だ。そんなこともこの本を読んで感じた。