プロメテウスの火: 原発: こんな視点も

興味深い見解があったので、以下に転載する。本文は末尾のpdfに。

科学技術はリスクを生み出すものだ。ドイツの社会学者ニクラス・ルーマンはそう考えた。ルーマンは「危険」の対語を「安全」としない。「危険Gefer」と対置されるべきは「リスクRisko」だと考えた。彼が「危険」と呼ぶのは、いわゆる天災の類だ。それに対して、人間が関わることで発生する危険を、彼は「リスク」と呼ぶ。

 こうした危険とリスクは単に対立するわけではない。たとえば冷たい雨はそれに身体を濡らした人を病気にしかねない危険な存在だ。この場合の雨は人の力で降らせたり、止ませたりできないという意味でのまさに天災の一種である。だが、傘という「文明の利器」を人類が発明した時点で、この天災としての雨は性格を変える。雨に濡れて風邪をひくことは、傘を持たずに家を出た人の責任に帰せられるリスク=人災となるからだ。

 このように文明が、天災としての危険をリスク(=人災)に変質させてゆくと考える点がルーマンのリスク論の特徴だ。

 今回ももしも原発が福島県の太平洋岸に作られていなければ、放射線の恐怖に日本国民の多くが怯えるような結果にはならなかった。地震や津波という天災を原子炉事故を伴う災害に変えたのは、原子力利用技術を採用したからに他ならず、日本社会が原発を作った結果として地震と津波は人災化したのだ。

しかし、この人災化の構図は丁寧に見て行くとより複雑だ。

 福島県に原発が作られるようになったのは地元がそれを求めたことが大きい。1960年には福島県議会が東京電力原子力発電所用地の提供を申し出て、61年には大熊町、双葉町議会が原発誘致の決議をしている。当時、「原発が来ればこのあたりは仙台のように栄える」と言われたそうだ。繁栄への願望が原子力を求めた。それは福島だけではなく、当時の日本全国がそうだった。原発へのラブコールは日本全国から送られていた。

 ところがやがて風向きが変わる。福島第一原発が稼働し、電気を首都圏に送り始めた71年は、まさに米国で盛んになった反原発運動が日本にも飛び火し始めた分水嶺となった。一足先に作られた関西電力の美浜原発で小さなトラブルが続いていたことも原発に対する不安感を増長させた。

 こうした風潮の中で、今後、原発が作りにくくなる事態を憂慮した時の田中角栄首相は「電源三法」と呼ばれる電源立地助成制度を作って、原発の建設を加速させようとした。「東京に作れないものを作る。作ってどんどん東京からカネを送らせるんだ」(『アサヒグラフ』1988年6月10日号)。田中首相の肝いりで作られた電源開発促進税法、電源開発促進対策特別会計法、発電用施設周辺地域整備法の3つのいわゆる電源三法の制定により、全国の電力使用者が支払う電気料金の一部分を電源立地に環流させることが可能になり、原発立地には目を見張るような大きな公民館が作られ、整備の行き届いた道路が敷かれた。

 だが79年のスリーマイル島事故、86年のチェルノブイリ事故を経て、原発に対する不安は増大し、こうした地元振興の助成政策をセットにしても原発用地の新規取得は著しく困難となってしまう。

そんな状況の中で、原発依存を続ける方針を採るなら、既に取得された場所の中で増炉や使用済み燃料の保存を行うしかなくなった。福島第一原発が、敷地内に立ち並ぶ6機の炉が連鎖的に破壊される恐怖で国民をおののかせたのは、そうした過去からの経緯による。つまり人災化の過程で反原発運動と原発推進の国策、電力会社の施策が絡み合い、リスクを肥大化させてきていたのだ。

 こうした構図はゲーム理論でいう「囚人のジレンマ」に通じる。囚人のジレンマとは逮捕され、別々に独房に収監された2人の囚人が、互いに相手は口を割らないと信じて黙秘を続ければ取り調べは暗礁に乗り上げ、両者とも無罪放免されるのに、実際には相手を疑い、仲間が自分を裏切るかもしれないので、ならばその前に自分から仲間を裏切って司法取引に応じてしまおうと考えることだ。こうして両者がそれぞれに事件の真相を自白した結果、両者とも罪が確定し、刑に処される。

 なぜ2人の囚人が最大の利益を得られない結果にみすみす至ってしまうのか、それは、人は利己的な生き物であるという前提=利己心仮説が導く必然である。相手は利己的であり、自分を裏切るだろうとあらかじめ疑ってかかる。その前提において、相手を信じずに自分の利益のみを最大化しようとした結果、両者の利益の最大化がなされない。

 この構図が原子力を巡ってもありえる。ここで反対派をA、推進派をBとする。反対派は原子力利用をなくすために今後も積極的に反原発運動をする(=A1)か、あるいはもはや反対運動をやめる(=A2)かという2つの選択肢を持っている。推進派も同じで今後も原子力利用を続け、施設を増設し、あるいは既存施設を維持し続ける(=B1)か、その政策を放棄する(=B2)かの選択肢を持っている。

 反対派は国や電力会社に原発の即時停止を求め、反原発運動を続ける(A1、B2)。しかし推進派は日本の国力を維持する電力需要に対応できないとして原発の停止には応じない。彼らは原発がいかに安全かを様々な機会を通じて訴え続け、反原発運動が鎮まることを期待している(A2、B1)。こちらは反原発運動家には大事故を招く選択と映るので、とてもでないが承伏できない。こうして両者が互いに相手の主張を拒否する結果として選ばれるのが(A1、B1)である。反対運動は続き、一方で原子炉の新規建築、増設も続く。この結果、反対運動の妨害を受けて新規に原発用地を取得することはできなくなった推進派は、既存の敷地内に原発を密集させることになる。これが福島原発のリスク(=人災)をむしろ拡大させてしまった構図だ。

以上、日経ビジネス:タケダジャーナルより転載
全文は↓
原発、タケダジャーナル110330-3.pdf 直