お茶を作る


待ちに待った茶の葉が伸びてきたので、今日は朝から茶摘みをしてお茶を作った。
裏の藪に結構沢山茶の木があるので一昨年周りの蔓などを取り払っておいたら、今年はぐんと芽が伸びて美しく輝いていた。

茶の木は木漏れ日が当たる程度の陽射しがあるところのものが一番いいように思う。芽が柔らかくて、お日様を求めて上へ上へと長く伸びるから。四時間ほどかけてあっちの茶の木、こっちの茶の木から若芽を摘んで、蒸す。炒った方が美味しいという人が多いけれど、私は断然蒸した方が好きだ。摘んでいる時にも茶の香りがするが、蒸していると茶葉が香り立つ。最初の頃に飲むお茶はこの香りが楽しめる。蒸したものはだんだん香りが薄れてくるが、香りが薄れたお茶で淹れたお茶は、子どもの頃学校で飲んだお茶の味がして、それもとても気に入っている。

私が子どもの頃、まだ学校給食が始まる前は毎日弁当を持って行ったが、学校では「こづかいさん」と呼ばれるおじいさんが、すごく大きなやかんで茶を沸かしてくれた。そのお茶が好きだというのは、茶を沸かしてくれた人にも思い出があるからかも知れない。

ひどく腰の曲がったおじいさんで、頭はぴかぴかに光って、くぼんだ目の上には太くて濃い眉毛があった。ものをいう時には、数本だけ残った黄色い歯が口からのぞいていた。私が三年生の時まで、このおじいさんが、お茶を沸かす部屋で、ものすごく大きなやかんで茶を沸かしてくれたのだが、文学少女だった私は、取り巻く世界が100%お話の世界であり、このおじいさんのドラマチックな顔と二つに折れたようなその身体から、私の中では、お菓子の家に住んでいて、そこに迷い込んできた子どもを煮て食べてしまう魔法使いとして頭の中に存在していた。お茶当番のときに、このおじいさんのところへお茶を取りに行くのだが、いつもおそるおそる行っていた。「お茶下さい」というと、「おう」と身体の奥から出てくるような深い声で答えて、やかんをくれる。私はおじいさんにわからないように、こっそりその顔を盗み見て、大丈夫だと自分に言い聞かせて、途方もなく大きいやかんを二つの手で持って教室に戻ったのだった。おじいさんにとっては迷惑な話だが、私は自分が大鍋に入れて煮られるところなどを想像しながら、こわごわお茶当番をしていた。(おじいさん、まことにすみませんでした)

まるで変な話だが、実は私にはこのことに限らず、多くのことが他の友達に見えるのとはまったく違って見えていたように思う。子ども時代は想像力が豊富なものだと思うが、私の想像力は抜きんでていたことは間違いない。このおじいさんの他にも、うちの前をときどき人さらいのおじいさんが荷車を引いて通っていたので、私は縄でぐるぐる巻きにされて連れられてゆく子どもの姿を想像しながら、いつ連れて行かれるかと思って怖かった。そのおじいさんが通るとさっと木の陰とか家の陰に隠れたものだ。

また、近くには「はまったら二度と出られない」底なしの沼というのもあって、そこを通る時はものすごく気をつけたのだった。