カエルの解剖は動物の虐待にあたるか

生物の授業、解剖廃止へ 米の一部学校、動物福祉の観点(朝日新聞)

記事全文転載:
「米カリフォルニア州の一部の学校が、動物福祉の観点から、生物の授業で動物を使うすべての解剖を廃止し、コンピューターによる「バーチャル解剖」に切り替える。「解剖は動物虐待だ」として反対している団体、米動物福祉研究所が3日、発表した。

 ロサンゼルス近郊にあるランチョベルデ高校など7校で、本物のカエルの解剖に近い体験がマウスの操作でできるというソフトウエア「デジタル・フロッグ」を使う。ソフトの使用料を同研究所などが学校に寄付し、学校は今後5年間、本物の動物の解剖を行わないことを約束する。

 同高の校長は地元メディアに「実際の動物の解剖とはやはり違う。だが、それほど大きく違うわけではなく、生徒が失うものはない」と話している。」http://www.asahi.com/science/update/0605/TKY201106050270.html

アメリカの一部の学校でカエルの解剖が禁止になった。生物の虐待にあたるというのがその理由だ。

動物の虐待や保護については昔から一定の運動が存在する。極端な例では「ザ・コーブ」のような映画もある。あるいは鯨は知的生物であるから保護するべきだとして、それを理由に人間に危害を加える団体もある。こうなるともう本末転倒としかいいようがない。

さてここで、どのような行為が虐待に当たるか、ということについて考えてみたい。

まず生き物に対する虐待ということだが、楽しみを目的とした釣りや狩猟、動物園や水族館で行われる、人を楽しませるための動物の芸などはどうだろうか。すべてのことについてどのような訓練が行われているか私は知るよしもないが、以前象の訓練風景がテレビで放映されたことがあった。訓練士は先に鈎の突いた1メートルほどの棒をもって背中に乗り、象が間違ったことをするとそれで身体を突いていた。また、二本足で立つための訓練には、熱した鉄板を用意して、象が前足をそこに下ろすとやけどするようにして、訓練していた。また、ある歩き方を教え込むために両足に太い鎖をはめて二本の足をつないでいた。象は小股でしか歩けないために、よろよろ転んだり、転倒したりした。そういうことが重なるのか、象の足は炎症で腫れていた。

また、かわいい動物が登場する番組でも、単なる人の娯楽のためだけにつまらぬ芸を仕込まれて、食糧と引き替えに一生懸命教えられたことをしている犬は、どうなのか。水族館のイルカだってアシカだって、なにも好きこのんでわっかなぞをくぐっているとは思えない。そもそも、アフリカにいるべきライオンや、南極に生まれたシロクマを日本くんだりまで連れてきて見世物にすること自体、虐待ではないのか。見たかったらこちらから出かけていって、邪魔にならないようにこそっと見せてもらう、というのが礼儀であろう。昨日は芸の途中で空中にジャンプしたイルカが、通路脇の地面に着地して死んだ。イルカ本来の生き方をしていれば起こりえなかった事故だ。

人を楽しませるためだけ、人の利益を唯一の目的として行われるこのような行為を私は虐待だと思う。従って、上記のような事例に加えて、鯨やイルカをはじめとする海の生き物の場合、ソナーなどを使って人の本来持てる能力を大きく超えて捕獲する場合は一種の虐待であり、同じ行為でも人が本来持っている能力、すなわち肉眼で見、手と足を使って捕獲するのは、虐待にあたらないとする。

では学校の授業で行うカエルの解剖はどうか。これは金銭的利益を目的として行われるものではない。楽しみのためのものでもない。純然たる教育であり、それを行うことで間接的にではあるが、自然界の保護など生き物にとって有益な結果に繋がることもあろう。従って私はカエルの解剖は虐待ではないと思う。

記事では実際の解剖をバーチャル解剖にしたとあるが、実際に目の前で、自分の手でカエルの腹を切り開き、手足をピンで留めるのと、画面で見るのとはまったく別のものだ。実際の解剖では内蔵の位置に関する単なる知識の他に、一匹のカエルを自分自身が殺すときの、なまぐさい匂いを嗅いだり、カエルの動く目を見たり、ひくひく動く足が自分の手に当たったりする感触を得ることが出来る。そして生き物が死ぬということの、ほんの一面だが、体験することが出来る。それは理科の実験を超えて、命とはどういうものかということを考える機会にも結びつきうる大事な授業だ。バーチャル解剖授業は、文字としての知識に精巧なさし絵が加わったようなもので、根本的に体験とは異なることから、実際の解剖の代替手段とはなり得ないと思う。捕まえた昆虫の羽をむしったり、足をもいだりすることもこの頃は残酷だとしてそうさせない風がある。しかし、これも私は、そうするのが子どもである限り、虐待ではないと思う。羽をむしったり足を取ったりすることで、昆虫を間近に観察する機会を得ることができ、昆虫を含め生き物に興味を持つ良い機会になるといった生物学者もいた。また、優秀だと言われる生物学者がオタマジャクシ一つ満足に飼育することが出来ない、机の上ばかりで勉強しているからだといったのは、私の大好きな生物学者、岡田節人(おかだ ときんど)だ。

小動物には少し気の毒だが、それは単に楽しみのために大人が行う釣りや猟などとは基本的に異なるものだ。大人がスポーツや趣味として釣りや狩猟を行ったり、動物に芸をさせて楽しんだりすることの方がよほど残酷だと思う。子どもが上記のような行為は理性以前にある、生き物の一種としての行為だと私は位置づける。つまり、猫が食べもしないのにカナヘビなどにじゃれて殺してしまうのに似ている。虐待かそうでないかは、対象に対して行為を行う人の姿勢の問題だ。つまり、自分の楽しみのために行うか否か、その違いだと思う。

動機が自分の利益でない場合、自然の摂理の一部として捉えることが出来るように思う。自然界には殺したり殺されたりということが普通に起きている。

残酷だと理由で短絡的に解剖を禁止することは、その思考回路自体単純ではないか。殺すことばかりが残酷なことではない。人間は殺さなくても、考えようによっては、殺すこと自体よりも残酷なことを動物にしている。