朝の音

我が家の朝は、かしましく明ける。裏の藪でたくさんの鳥たちが、朝まだきからさえずり始めるからだ。

あっちからこっちから、遠くから近くから、一体何匹くらいいるのだろうか。空高く伸びた竹の枝には鈴なりに鳥が止まっている。多くは雀に違いないけれど、イカルやヒタキ、シジュウカラ、などもいる。ギーギーと鳴くのはコゲラだ。時々樫の木に止まってトトトトトと木を連打する。時々顔を見るけれど、ひょうきんだ。話しかけるようにさえずるのはイカル。あんな風に抑揚豊かに、しかも優しい調子で話しかけられると、はいよ〜っと私も答えてしまう。ピピッピピッと鳴く鳥に答えてでもいるのか、カエルも鳴き始める。今年はモリアオガエルも鳴いているんだろうか。東から吹く風が竹を揺らしてサーっと涼しげな音を立てる。

数年前から庭には沢山木を植えて、今では前の山の裾野のようになってすっかりいい気分になっている。根元の方にも自然に生えているような草花を植えて、すっかりやまんばの気分だ。心地よい。年を経る毎に私は本来の私に戻ってゆく、そんな気がする。

二十歳の時に仕事場で知り合った、当時30代なかばらしい魅力的な人が、「わっちはなも、うちの前にちょこっと畑があるが、あれさえあれば、どんなことがふりかかっても乗り越えていける気がするわな。」といった。私には非常に印象的な言葉で良く覚えている。それが今になって実感されている。

これはまた昔、細川護煕が「雛の論理」という本の中だったか、小さい頃は論語を始めとする数々の難しい文献を訳も分からないまま暗唱させられて嫌だったが、大人になって折に触れ、ふとそれが思い出されてくる、あの頃の暗唱が生きてくる、というような意味のことを書いておられてようにおぼえている。

今までの様々な機会に、私の意図と関係なく、心にとどまった言葉や、出来事の数々。この積み重ねがわたしであり、不思議なことにそれは意図したものでないものから出来ている。生まれたその時から、今のこのときに向けて生きてきたんだろうか?