福島

関市ではこの夏、福島から子ども達を招くことにした。ホームステイ先が必要だということなので、私も協力することにした。

今日もニュースでは原発影響地域の子供らが外で遊ぶことが出来ず、外出時にはマスクや長手袋などで身体を覆っている姿が報道されている。夏休みの間だけでもと、県外に一時移動する人たちもいるし、それを受け入れている市町村もある。避難所で暮らす人も、仮設住宅で暮らす人もまだまだ多く、原発から半径20キロ圏内には将来戻れるかどうかさえ定かではない。また、放射能に汚染された肉や野菜によって、生産者は暮らしを奪われている。報道されているのはごくごく一部だろう。

その一方で経済界や経済評論家、原発/電力関係者は、再生可能エネルギーに転換しようという議論にたいして、経済が失速するとか、安全性を高めて運転するべきだとか、相も変わらず同じ事を言っている。直接影響を被っていない人の中には、原発の存続にたいして大変冷静に肯定的意見を述べている人もいる。

途方もない犠牲が現実に出ている一方で、核の技術については、放出されてしまった放射性物質の制御は勿論、核廃棄物処理の問題を含め、未だ確立していない。何百年、何千年という半減期を持つ放射性物質を未来への課題として積み重ね続けてよいのだろうか。

しかも、この間田坂広志氏が述べていたが、原発の事故の大半はヒューマンエラーによるものだという。そうであってみれば、核を完全に制御できていない以上、原発の安全性などというものはとうてい確約できるはずのものではない。

大きく割れている議論の一方では金を第一に考え、他方では人の命の方を重視している。こういう風にいえば簡単なことだが、「経済」を重視する人々はマクロだのミクロだの、グローバル経済だのと様々な理屈をつけて現状を維持しようとしている。たとえ今エネルギー政策を転換したところで、実現には十年以上かかるだろうと推測されているが、方向転換にさえ難色を示している。

電力業界には巨額の利益が絡んでおり、テレビコマーシャル代にも途方もない金をつぎ込んでいるので、業界を大ぴらに敵に回せないというメディアの事情があるという指摘もある。原子力プルサーマルに関する意見交換会への参加者に、安全保安院から誘導があったというニュースが流れた。九州電力は犬のように保安院の言うことをよく効いて原発賛成者を動員した。

あのこと、このこと、、、あまりにも多くのことがあの事故依頼明らかになり、原子力に関係する人たちがいかに信頼できないかということが分かってしまった。今では信頼するべき人であったとしても、疑いの目で見ざるを得ないような状況になっている。彼らとその利害関係者は、福島の現状をどう考えているのだろうと、私はごく単純に問いたい。世界競争に勝つためには犠牲はやむを得ないとでも思っているのか。

問題の核心は原子力の技術と同じく、それを扱う人たちへの信頼でもある。もし、自分が原発事故で暮らしを追われるようなことになったら、、、そういうことを彼らは一度でも想像したことがあるのだろうか。それとも、こんなミクロの考え方は世界経済を論じる際には意味が無い、と言われるだろうか。