言葉について考える: 「被災者」というレッテル

三泊四日のホームステイも、あっという間に終わって、今朝早く維吹くんは宮城に帰って行った。預かり先の親は皆で名残を惜しみながら手を振って見送った。ホームステイを引き受けたのは初めてだったが、ものすごく楽しい時間だった。

さて、このことが新聞の記事になっていてコピーを渡されて読んでみると、「被災中学生」だの「楽しく交流」だのという紋切り型の言葉ばかりが並んでいて、げんなりした。自分が直接関係する事柄が記事になることはこれまでなかったので、被災者とか、被災中学生とかいう言葉にもそれほどの嫌悪感はなかったが、今回維吹くんという子と知り合いになってからあのような記事を読むと、紋切り型の言葉にもげんなりしたが、同時になにかというと「被災」という言葉を頭につけることに非常な違和感を持った。関に来てくれたあの子たちは、宮城県から来た普通の子たちであり、被災中学生などという言葉でひとまとめにすると、普通の子じゃないと暗に言っているようで面白くない。そんなふうにまとめられた彼らは一体どんなふうに感じたのか、ちょっと聞いてみたい気がする。特にこのごろのように、どのメディアでも被災地、被災者と連呼している中にあっては。最後のお別れの時には「がんばろう」三唱である。もういい加減頑張っている中で、また言われるのである。

言葉というのは自分で発しているうちに、あるいは自分に対して発せられ続けているうちに、その言葉に気持ちや考えが引きずられる、つまり影響を受けるということはよくあることだ。先生、先生と言われているうちに自分が偉くなったような気がしてきて、物言いも尊大になるのに似ている。

ものを一括りにすることはたしかに便利なことではあるが、安易に使ってはいけない。大まかな言葉であればあるほどその中に含まれる特徴は失われる。人に対して使えば人間性も失われてゆく。

文字を暮らしの糧としている種類の人たちであれば、もう少しよく考えて、多彩な言葉を使ってもおかしくないと思うが、あっちの記事もこっちの記事も似たような内容を似たような言葉で伝えている。それを読む私たちも自ずとそれに影響されて、頭に大まかで似たような思考回路が出来上がる。

言葉によって、人は崇高な思想を持つことができる。それを伝えることができる。ふと、村上春樹の受賞スピーチを思い出した。高い思想を持った彼のような人には、更に多くの言葉を発してほしいと思う。