人をつなぐ 言葉

「失礼ですが、関にお住まいでしょうか、、」


昨日、生まれて初めて署名運動というものをした。近くのスーパーに買い物に来た人に、大型複合施設の建設を止めるための署名をお願いするのである。


快く聞いて下さる人はごくまれ。たいていはうさんくさそうに横目で眺めて通りすぎるか、「いえ違います。」という答えだ。こんなにも関市以外のところから買い物に来る人が多いのかと、びっくりするくらい。


「そうですが、、、」と答えた人には更に「少しお話を聞いて頂けないでしょうか。」と話しかけてみる。


時間は10時半から11時半。買い物でにぎわう時間帯だ。多くの人に話しかけるが、会話が成立する人はごくわずか。15人か、20人に一人くらい。


たとえ断られても、あるいは簡単に「違います。」といわれても、そうか、と思うだけで次の人に声をかけてみようと思う。


が、辛いと分かったのは無視されることだ。話しかけてもわざと無視されるという経験がなかった私は、このとき、それがどんなことか痛いほど分かった。


子どものいじめにも、無視されることが問題となっていることをよく聞くが、さぞ辛かろうと思う。無視する人はそれほど何とも思っていないだろうが、一生懸命話しかけているのにそれを知りながら無視されると、心にずしんと来るものがある。これが間をおいて一回や二回ならさしてへこまないと思うけれど、毎日毎日続くとしたら、考えるだけでも恐ろしいことだ。ましてや、家庭のみの人間関係を卒業していよいよ友達という社会に踏み出すまさにその時に、自分を全否定されるような経験をしたら、大人の受ける打撃とは比べものにならないに違いない。


以前娘がティッシュを配る仕事をしていたときに、無視されるのが本当に辛いと言ったことがあって、それまで黙って通りすぎていた私は、以後「すみませんが、結構です。」と言って断ることにした。


不特定多数の人に話しかける仕事は他にもある。例えば以前ドーナツ屋さんでは、「いらっしゃいませ、こんにちは」と、まるでテープレコーダーの再生音みたいに挨拶をばらまいていたことがあった。不愉快なのでそういう機械音のような声かけには応答しないことにしているが、声をかける方も、いちいち心を込めて言っていたら身が持たないからだろう。なら、言わない方がよほどましだと思う。


スーパーのレジでも同じようなことがある。


ところが一人だけ、いつも笑顔を絶やさず、「お預かりします。」とか、「ありがとうございました。」とか、おそらくマニュアルに指定された言葉を、客の目を見ながら言っている人を、私は一人だけ知っている。その人は本当に一人一人に向かって気持ちを込めて言っているように、少なくとも私には見える。スーパーのレジで、たとえ心を込めた挨拶をされても、その人が知っている人ででもない限り、挨拶を返す人はいないだろう。私はその人をまるで知らないけれど、あんな風に挨拶されてはこちらも黙っていては失礼だと思って、なるべく目を合わせながら「ありがとう」と言うことにしている。


言葉に気持ちがこもっているかいないか、それを言う人のしぐさや目つきでわかる。機械の再生音みたいな言葉なら、いっそ吐かない方がましだ。そういう機械的な言葉が頻繁に吐かれているために、言葉そのものの重みや意味が軽んじられているように思う。


どんな言葉を話すか、それは話す人によって違う。言葉は人格そのものだ。


人は言葉によって繋がっている。何を語るか、どんな言葉で語るか、改めて考えてみたいと思ったこの署名運動であった。


さて、署名を頼んでいるとき、若い男の人が通りかかったので例のごとく話しかけてみると、署名の趣旨をじっと聞いてから、「僕は今そのことについてよく知らないので、知らないままに署名をすることはできない。だから今は署名できません。」という答えが返ってきた。立派な人だと思って、それではこれから関のことを勉強してよく考えて下さいと言ってお別れした。彼のような人がもっともっと増えてくれればと思う。