日本の検察

最近東電OL殺人事件が再び話題になっている。これまで犯人とされ、無期懲役が確定しているマイナリ被告以外の人物のDNAが、被害者の体内や自宅から発見されたからだ。この事件は現在再審請求の判断中であり、被告側弁護士は、有罪判決を揺るがす重大な証拠であるとして、裁判のやり直しを求めている。この事件では明らかな物証がなく、現場に残されていた体毛や体液の血液型をもとにした状況証拠を根拠として無期懲役が確定された。

再審請求審でも検察はあくまで主張を変えず、有罪を求める方針であると、先日報道された。

この報道を見たとき、まだ記憶に新しい足利事件や、証拠をでっち上げた検察幹部の不祥事が頭に浮かんだ。足利事件ではえん罪だということが明らかになったあと、菅谷さんが当時の担当者に謝罪を求めたが、最後まで謝罪はなく、当時はあの判断で正しかったと繰り返すばかりだった。その後の証拠ねつ造事件では、検察の描いた筋書きに合うように証拠を改変した。これについては、被告側が証拠品の矛盾に気がついたからこのねつ造が明らかになったものの、そうでなければ、新たなえん罪が発生するところだった。

人が人を裁くのであるから、間違いということを常に考慮に入れるべきであるにも係わらず、いつの間にか検察は非人間化し、計算機の頭を持つようになってしまった。計算機の中にある情報をもとにしてしか考えられない、自分の計算に合わないものは、合うように作り変える。そういうことまでしてしまった。このことは長い間に蓄積された傾向であったと、当時の多くの関係者や評論家が語っていた。

今年から裁判員制度が導入されて議論を呼んでいるところだが、検察のこのような、視野の狭い、計算機の頭から導き出された筋書きに対抗するには、私たち一般市民の健全なる感性が是非とも必要だ。

今回のマイナリ受刑者の件が、再びえん罪とならないように祈るばかりだ。