三つ子の魂

昨日、光市母子殺害事件の判決が出た。
当時18才だった被告の死刑が確定した。

被害者遺族の本村さんは「この判決に勝者はない。犯罪が起こった時点で被害者も加害者も敗者なのだ」と言っていた。説得力のある一言だ。本村さんは事件当時死ぬほどの怒りを感じたに違いないが、今となってはその怒りも当時ほどではなくなっているように見えた。

この事件は本村さんが積極的に被害者の権利について運動されたということもあって大きな注目を浴びた。昨日のニュースでも、そのためか少年の生い立ちを少し紹介していたが、彼が育った環境では暴力が日常化していたという。多くの家庭環境から判断すると特殊なものと言ってよい。そういう中で育って、健全な道徳観が養われるものだろうか。何を良とし、何を良としないかという価値判断はごく幼少の頃に形成される。そして人は生まれる環境を選べない。

あまりにも少ない情報を基に軽々なことは言えないが、そうであってみれば、死を持って償わせるほどの責任を個人に負わせることができるのか、私にはどうしても判断できない。

昔、人種差別の根本にあると思われる問題を扱ったアメリカ映画があった。主人公は根深い白人優越感を持った両親の家庭に生まれた。そこでは黒人は人ではないのだという価値観のもとに、そのような言動が日常化していた。主人公はやがて青年になり、つまらないことから黒人を殺害するが、本人にはその行動が世間から非難される理由がどうしても理解出来ない。そういう内容だった。この映画が、日常のごく些細な場面にも細かい配慮をして、非常に丁寧に作られていたこともあって、偏見というものが本人も知らない間に脈々と受け継がれる様子が良く描かれており、なかなか失くならない偏見に対して、なるほどと納得するものがあった。

私は一貫して死刑には反対だったが、それは冤罪を生んだ場合に取り返しがつかないというのが理由だった。が、今回のように冤罪の可能性はゼロの場合でも、やはり上に述べた、どこまで本人の責任に帰することができるのかという問題でも、死刑という刑罰は課すべきではないような気がする。私が本村さんの立場だったら、やっぱり死ぬほど怒って、死刑を望むことは明らかだが、こういう大きな問題を個人的な感情で判断することは危険だと思う。

少年が刑務所で書いたという手紙が公表され、その内容を読んで、何ら反省の気持ちがうかがわれないことについても、死刑は当然だと思った人は多いかも知れないが、どんな言葉を使うかということもやはり育った環境に大きく左右されるのだ。少年法も環境の与える影響の大きさに注目して、18歳未満の犯罪者には死刑の適用をしていないのだと思う。

冒頭に掲げた「この判決に勝者はない。犯罪が起こった時点で被害者も加害者も敗者なのだ」という本村さんの言葉を、私は心に刻んでおきたい。加害者自体を出さないように、大人の一人ひとりが、よく考えて行動しなければならないと改めて思ったことだ。