古文書の整理

私が住んでいる地区に古くから保存されている文書を分類整理するというので行ってきた。倉庫の奥に入ってみるといくつもの段ボール箱が山積みになっていたので、それを全部集会場の広間に出してみると、古くは明治の頃の、和紙に墨で記した文書もあった。

自治会の出納簿、米の出来高らしい表、作物の売値を記載したものらしい文書もあったが、他に用水を作った頃の歴史を記したものもあるという。元禄時代というから今から300年以上も前に引いた用水だ。この地区は川が田畑より下に位置するため、上流から水を引いたものらしいが、おそらくそれにまつわる人足の数や作業の様子などが記されているのではないかと思う。次回の整理日には是非読んでみたいものだ。

この地区にはかつて産業廃棄物処理場の建設が取りざたされたことがあって、業者と交わした覚書も保存されていた。この問題は住民の意見が別れて、二世代にわたって継続した後、つい昨年に解決を見たのだが、私が自治会に参加し始めてからでも、ひとつの大きな事業を行うについては互いの利害が絡んで、進行に困難をきたす様子がよくわかる。こういうことを記載しておいたら良い教訓になるだろうと思った。

他に、神社の神事で使用したシチリキや笙の笛、和太鼓、神主さんが着用するような白装束も出てきたのにはびっくりした。昔はちゃんとこうした楽器をそれぞれが演奏して神事を行なっていたのだった。楽譜も。「太平楽」という曲らしい。父は笙の笛を演奏する係であったそうな。

只今は文書はもとより、動画や写真など、記録媒体は数多ある中で、膨大な記録が存在すると思うが、簡単に記録できる分、つまらないものでもとりあえず撮っておこうと、どんどん蓄積される。これを後から、長く保存するものとそうでないものとに分類して保管する人はどれくらいいるだろうか。あまり写真を取らない私でさえ、後から分類しようと思うと意外に沢山あって、結局分類しないまま残り、パソコンの記憶容量がいっぱいになってくると、古いものからどんどん削除するという配慮のないことをしている。

一方、紙自体が貴重であった時代には、そもそも何を記録するかしないかという時点で選別がなされたに違いない。そして、紙と筆で記録した。デジタル情報は便利だというものの、技術の進歩が早いために記録媒体自体が短期間で読み出し不能となってしまう。後世まで残る可能性という観点からは、案外、物理的な物の方が残りやすいのではないかとも思った。

記録するということの意味を改めて感じた一日であった。