裁判の危うさ

マイナリ被告の再審が決定したニュースを聞いて嬉しく思いました。この裁判に限らず、疑わしいものはどんどん裁判のやり直しをすべきだと思います。

このところ、検察の思い込みによる捜査がいくつも問題になって来ましたが、今日のニュースでも当時事件を担当した刑事が「怪しいと思ったらそこに焦点を当てて捜査する。その方向に合わない証拠は除外する傾向がある。捜査当初の判断が不適切であった。」と述べていました。実際、捜査当初に血液のDNA鑑定を行なっていればマイナリ受刑者は起訴さえ免れた可能性があるのです。

これは考えてみれば恐ろしいことです。いったん怪しいと睨まれたら、それに沿った証拠だけが選択され、都合の悪い事実は隠蔽される。確実にその思い込みを否定する客観的な証拠でもない限り、犯人にされてしまう、そういうことです。

実際先の厚生労働省の職員もそういう目に会いました。たまたま情報の齟齬が見つかったから良かったようなものの、そうでなかったら検察の思い通りに有罪になって投獄されていたかもしれません。このマイナリ受刑者の場合もしかりです。

もう一つ危ういと思うのは裁判官の裁量によって判決や再審の決定が成されるこの制度です。先の名張毒ぶどう酒事件では、検察と弁護側双方の主張する論点とは別の、裁判官個人の推論にもとづいて再審が拒否されました。これについては疑問の声もいくつか表明されました。どんな考えを持った裁判官に当たるかで、有利にも不利にも働くということは怖いことです。中坊弁護士は、自分が弁護するときは裁判官の心証を悪くするようなことをいったりしたりするようなことは絶対に避ける、と言っています。また、裁判官の裁量によって判断が成される点の危うさも述べています。

さらに危ういと思う点は検察の傲慢さです。それが端的に示されたのが足利事件でした。冤罪が証明された後、謝罪を求める菅谷さんに、検察の誰一人としてその場で謝罪しませんでした。当時の捜査は間違っていなかった、最良のものであったと繰り返すばかりでした。こうした、自らの過ちを認めない傲慢さが冤罪を生むのではないでしょうか。彼らは事件の当事者を自分に置き換えて考えてみることができない、想像力の貧しい見苦しい人たちだと思わざるを得ません。

裁判官制度が導入されて問題点も出ているようですが、法曹界とは別の視点がぜひとも必要であると、改めて思いました。

以下引用:
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120607/t10015678221000.html
マイナリ元被告 釈放され入管施設へ
6月7日 17時38分
平成9年に東京電力の女性社員が殺害された事件で無期懲役が確定したネパール人の男性について、東京高等裁判所は、再審=裁判のやり直しを認めるとともに刑の執行を止める決定をしました。これを受けて男性は釈放され、横浜市にある入国管理局の施設に入りました。
この事件は、平成9年3月、東京・渋谷のアパートで東京電力の39歳の女性社員が殺害されているのが見つかったもので、部屋の鍵を預かっていたネパール人のゴビンダ・プラサド・マイナリ元被告(45)が強盗殺人の罪で起訴され、1審は無罪、2審は無期懲役を言い渡し、その後、確定しました。マイナリ元被告は、平成17年に再審=裁判のやり直しを求め、検察が去年、被害者の体に残されていた体液と現場に落ちていた体毛のほか、被害者のコートの血痕のDNA鑑定を新たに行った結果、いずれも別の男のDNAが検出されました。7日の決定で、東京高等裁判所小川正持裁判長は「有罪とした、これまでの判決は第三者が現場の部屋に入ることは考えられないとしていたが、鑑定結果などから別の男が部屋で被害者を殺害した疑いが否定できなくなった。この結果が当時の裁判に提出されていれば有罪にはできなかったと思われ、新たなDNA鑑定の結果は無罪を言い渡すべき明らかな証拠に当たる」と指摘して、裁判のやり直しを認めました。7日の決定では、刑の執行停止、つまり釈放も認めました。検察は再審開始と釈放のいずれの決定についても異議を申し立てるとともに、職権で身柄の拘束を続けるよう求めましたが、東京高裁が身柄の拘束を認めなかったため、検察はマイナリ元被告を釈放しました。再審が確定する前に刑務所から釈放されるのは異例です。マイナリ元被告は、午後5時すぎに車に乗せられて横浜刑務所を出たあと、横浜市内の入国管理局の施設に入りました。入国管理局の施設に入ったのは、マイナリ元被告が15年前に逮捕された当時、不法滞在の状態だったためです。一方、再審開始の決定に対しては、今後、東京高裁の別の裁判官が判断が妥当かどうかについて、改めて審理を行うことになります。しかし、検察が決定を覆すような新たな証拠を提出できなければ、裁判がやり直され、無罪が言い渡される可能性が出てきました。