忘れられた日本人

宮本 常一 著 「忘れられた日本人」

これは明治から昭和初期の日本の村の様子やそこに暮らす人の人生を、主に村の人から聞いて書き写した書物だ。一部著者自身の回想も含まれている。数日前に、知人が面白いと紹介していたので、題に惹かれて私も読んでみたが、実に興味深く読んだ。

日頃の生活はいたって単調で、一本の道を果てしなく歩いて行かなければならないような日々である。そうした生活の救いともなるのが人々の集まりに寄って人間のエネルギーを爆発させることであり、今一つは私生活の中で何とか自分の願望を果たそうとする世界を見つけることであった。

こうした単調な暮らしの中で、村の寄り合いは重要な役割を果たしていた。皆が集まって、一応議題はあるものの、話はそれからそれへと移り変わり、男女の噂や昔話など村の中のあらゆることが話題になる。当然どんどん長くなるので途中で食事に家に帰ったりすることもある、が、最終的には議題について皆が納得するまで話し合われる、そういった様子が語られている。

女たちだけの、お茶飲み会のような寄り合いもあった。そこでは嫁の悪口などの他愛もない話をして日頃の鬱憤を晴らし、嫁に対してストレスを発散することがないよう、防波堤のような役割があった。

男女の仲も今よりはよほど開放的で、夜這いについても経験が沢山語られている。

様々な村が登場するが、どの村もそれなりの秩序を持って維持されているのは、どの村にも長老といえるような存在がいて、その人がいさかいをうまいこと収めていたということもあるが、そんなことをしては人に恥ずかしい、人の手前がある、というような気持ちだったのではないかと思う。私がちいさい頃も、そんな事すると人が笑うから止めなさい、というようなことをよく言われた。人に恥ずかしいことをしない、ということが大きな抑制になっていた。

周りの自然界に対しては、

「日暮れに一人で山道を戻ってくると、たいてい山の神様が守って付いてきてくれるものじゃ。ホイッホイッというような声をたててな。」

「みみずというものは気の毒なもので、目が見えぬ。親に不幸をしたためにはだかでつちのなかへおいやられたが きれい好きなので小便をかけられるのが一番つらい。よるになってジーっとないているのは、ここにいるとしらせているのじゃ。」

「ハサミはカニの手じゃけえ、手がないとものが食えん、ハサミはもぐなよ。」と子供に教えた。また、「カニと遊んだら、またもとに戻してやれよ、あそんでくれんようになるけえのう。」とも言った。

のように、自分たちと対等の扱いをしていた。私自身も、子供の頃祖父が、稲刈りが終わると、田の神様に、といってみんなで味ご飯を炊いて、それを障子紙の飾りの付いた大豆の枯れた枝と一緒に、他の真ん中へ供えた覚えがある。朝はお日様に向かって必ず手を合わせていた。

また、この本には幾人かの歩いてきた人生が、当人の口で語られているものもあり、それぞれがドラマだ。村人の間にある非常に濃い人間関係、愛憎の綾を述べたところも面白く読んだ。

さて、こうした人々は、やはり「忘れられた日本人」となってしまったのだろうか。

非日常のことは本になるが、普通の人の普通の暮らしが本になって出版されることはほとんどない。が、我々のほとんどが普通の人であり、普通の暮らしをしている。だから貴重ではないかというと、そんなことは決してない。どの人生も、一生懸命生きている限り、貴重であり、美しいのだということを、この本を読んで改めて感じたことだ。