島田裕巳 著 「葬式は、要らない」

宗教学者である著者が、葬式が不要である理由を縷々述べている。

仏教の本来の教義から説き起こし、日本の仏教がいかにして葬式仏教に堕したか、葬式の費用がどうして高額になるかなどについて詳しく示し、葬式をしない方法に至るまでが詳細に書かれている。

最近葬式の形態が変化して、樹木葬、自然葬、家族葬など様々な形を選択することができるようになったことは、ときどき報道されている。え?坊さん呼ばなくていいの?呼ばなくても良いのである。どころか、葬儀自体も別に法律で決められているわけではない。それでは本来葬式とは何のためのものであるのか、誰のものであるのか、仏教とどのような関係にあるのか、、、読めば読むほどに興味深い。

もともと釈迦を祖とする仏教の教義は物事の無常を説き、執着を排せよというものであった。それが中国から日本に採り入れられて、日本で政治や仏教界の利害に影響されて独自の発達をする。その結果、現世に対する執着を排除するどころか、見ように依ってはますます執着するようになってしまった。人の欲というものには限りがない、宗教すら金銭欲や虚栄心を満たす道具にしてしまう。欲と欲がからみあいながらたどる道筋は、かなり面白い。私は犯罪の発生する経緯にも興味を持っている。普通の人が普通の生活を続けることと、一線を突破して法を犯すこととはごく薄い紙一重でしか隔てられていないと思うからだ。欲の渦に巻き込まれるのも、ちょっとした気の緩みで起こるに違いない。

余談はさておき、葬式代を高額なものにしている主たる要因が戒名料であると著者は述べる。この戒名も日本独自のものらしい。僧侶は出家する時に戒名を授かるが、一般の人が死んだ時に戒名をもらうのは日本だけの習慣だそうだ。戒名には4つのクラスがあってそれぞれに料金が異なるが、一番低いランクのものでも数万円、一番上のクラスである院号などをつけようものなら30万円とか50万円、場合によっては数百万円にも達するらしい。これも、豪華な葬式と密接に連結するもので、豪華な葬儀をする人は豪華な院号料を払う。葬儀で高額なのは僧侶に支払う金額である。やはり宗派によって僧侶の数が異なるがいずれも最低数十万円である。戒名にも読経料にもそれぞれ相場というものがあって、だいたいクラスごとに似たような金額を支払うことになっているが、おかしいのは、料金という言葉を使わないように仏教界上層部からお達しを出しているらしい。葬式は葬儀だけでは済まない。法要もしなければならないし、墓も建てなければならない。知人の家で、老夫婦とその子息が相次いで他界されたことがあったが、三人分の葬儀その他の一時的費用は合わせて1000万円を下らなかったとため息を付いていた。普通の家の話である。

宗教といえば、キリスト教、回教、仏教などが主に頭に浮かぶが、どれも現世の欲から解き放たれることと、他人への慈しみをその根源の教義としていると思う。が、葬式仏教だけはどうも違うらしい。実際、葬式や盆、施餓鬼などで読まれる経も、布施の金額に依って違うのである。沢山払った人には長い経を読み、布施の少ない人には短い経を読む。ずっと前になるがこうした仏教界の有り様に疑問を呈する報道番組があったが、その中でアンケートを行なっていた。質問の中に、仏教は好きですか、坊さんは好きですか、という二つがあったが、仏教が好きと答えた人の数はおよそ8割出会ったのに対して、坊さんが好きと答えて人は3割に見たなかったように憶えている。

こうして見ると日本の仏教界は救いがたいという気がするが、やはりこれではいけないと警鐘を鳴らす僧侶もいる。長野県の神宮寺という寺の住職は「寺よ、変われ」(岩波新書)という本を著して、戒名について「戒なき坊さんから戒名を受けるという根本矛盾だ」と述べているそうだ。

50を過ぎた頃から葬儀や通夜に出席する機会がだんだん増えてきた。坊さんにもいろいろある。中には葬儀の後に禅問答の中から一部を引用して説教する人もいる。この方はうちの近くの僧侶で、4回ほど葬儀と法要に出席したが、いずれの時も必ず心に響く説教をしていた。ちなみにこの方は葬儀を執り行う家に出向くときには必ず香典を持っていかれるそうで、80を超えた叔母が「あのおっ様は偉い人や。おっ様は取るばっかやでな。」と言っていた。香典を持っていく坊さんは少ないらしい。宗教家である以上、やはり世俗の手本となるような、尊敬されるような人格を心がけるべきであり、またその教義を折に触れて説き、人々を啓蒙するべきだと私は思うが、どうだろう。

さて私もあと40年もしたら(長命の家系なのである)死ぬことになるが、その時の計画を今から練っている。只今からそれを述べるので、息子たちよ娘たちよ、よく憶えておかれよ。このごろは医療技術が異様に発達してしまったので、いかにして死ぬかということまで選択しなければならなくなった。できれば自然な形で生を全うしたい。そこで体躯への一切の配管を禁止する。死後には、いわゆる葬儀というものは執り行わず、山の神を始めとする八百万の神々をお招きし、お別れ会という形で世話になった方々にお別れしたいものだ。死体の焼却後、希望者には灰の持ち帰りを許可する。墓は作らず、灰を少量、西根山の山男が好んだとされる谷に撒いてもらいたい。以上である。