地獄の沙汰も、

今日は実家の施餓鬼だというので、寺に行ってきた。この寺には数年前に新しい坊さんがやってきたのだが、施餓鬼のやり方も年々変わっている。今年は「XXX家、大施餓鬼です。」とマイクで案内があった。これが今年の新しい技である。

施餓鬼には普通の施餓鬼、大施餓鬼、特大施餓鬼の3つのランクがある。普通の施餓鬼は20件ほどの檀家をまとめて、経を読む。大施餓鬼と特大施餓鬼は個別の経である。値段もそれなりに設定されていて、大施餓鬼は三万円らしい。ほんの数分の経である。今日は親戚も集まったので、父がうな丼をおごるというのでいさんで行ってきたが、このうな丼を思い出した。

この坊さんになってからは法要など折にふれてやんわりと営業がある。「最近は法要も簡素化する傾向にあって、誠に嘆かわしい。もっとご先祖様に対して敬意を払ってしかるべきである。」というような具合だ。説教というものは聞いたことがない。

釈迦はどんなことを説いたのだろうか。キリスト教には聖書というものがあって、誰でも読もうと思えば読めるが、仏教にはそういう聖典があるのだろうか。別の寺の別の坊さんは、葬式の時も法要の時にも、心に留めたくなるような説教をしていた。そうしてみると、坊さんになる時には説教の元になるようなことを習ったに違いないし、そのような書物もあるに違いない。仏教の真髄を伝えることで、檀家の心の拠り所ともなるし、宗教者というものはそこにこそ本来の姿を求めるべきではないだろうか。