ドナルド・キーン 「私の大事な場所」

キーン氏が訪れた様々な場所と出会った人々についてのエッセイ集である。

キーン氏は私が最も好きな人の一人だ。柔らかい物腰と謙虚な人柄、そしてユーモアのある語り口。何よりも私が感動したのは、昨年キーン氏が日本国籍を取って日本への愛を証明してくれたことだ。行動は百万の言葉より雄弁だ。

最近テレビで著作集が出版されたとの報道を見てこの本を手にとった。日本に対する愛着、日本の文学者に対する思い、そして日本での評価とは異なる氏の見解がわかりやすい口調で述べられていて、読みやすく、興味深い。

この本の中で印象に残ったのが、教師の仕事は学問への情熱を伝えることだ、という一節だ。

氏はいろいろなところで教鞭をとっておられ、この本の中にもそのことに触れられている。

教師とはいかにあるべきか。

高校の時古典を習った先生を思い出す。名前を忘れてしまったが、白髪で眉毛の無い、初老の人だった。この先生は源氏物語をこよなく愛していらっしゃったようで、その一節、一節を教授するときには、「ここのところ、いいですねぇ」と盛んに指摘されて、まるで夢をみるように、あるいは平安時代を目の当たりにしているかのように上の方を見上げて話をされ、酔ったような恍惚感を私は先生から感じた。

にも関わらず私の古典のテストの点は振るわず先生の期待には添えなかったが、学ぶということの楽しさをあの授業から知った。

教授する立場にある人が心から教える分野に感動しているなら、知識の伝達にとどまらず、知るということの楽しさを伝えたり、知的好奇心を掻き立てたりすることができるに違いない。そして、教育の究極の目的はここにあるのではないだろうか。

ゆとり教育が随分非難されて、また元のような分厚い教科書に戻ろうとしているが、私は残念に思う。人は生涯あらゆる形で学び続けるものであり、学びは学校を出ても続き、テストの点だけで成果が測れないものは沢山ある。それを考えると小学校と中学校は、この「学びを継続する姿勢」を根付かせる最も基本的な施設だ。ここではごく基礎的な知識だけを教え、学問以外の例えば建築や園芸の技術など暮らしに役立つことについて、その道の専門家による授業があればいいと思う。「ゆとりの時間」はこういうことを実践するのにうってつけの時間だと思ったが、それが有効に活かされないままに消え去ろうとしている。

学びの姿勢は学校ばかりでなく、いつでもどこでも教えなければならないし、それが可能だ。学校だ家庭だといわず、まずは自分の子供から、孫から、始めたい。